黄檗宗について

概要

黄檗宗(おうばくしゅう)は、日本における仏教の宗派であり、臨済宗、曹洞宗に次ぐ禅宗の一つです。 唐の僧・黄檗希運(臨済義玄の師)の名に由来します。 臨済宗、曹洞宗は徐々に日本風に姿を変えていきましたが、黄檗宗は現在においても当時の明朝風様式を伝えているお寺が多いです。中国では臨済宗に含まれますが、中国的な法規が日本の臨済宗とは異なったため、独立した一宗派となりました。 本山は隠元隆琦の開いた、京都府宇治市の黄檗山萬福寺(おうばくさんまんぷくじ)です。

歴史

江戸時代初期、1654年(承応3年)に明末清初の中国から招聘された中国臨済宗の隠元隆琦により日本に伝えられました。 以来、中国から住職を招聘してきましたが、1740年(元文5年)和僧の龍統元棟が第14代住持に晋山しました。 当初、正統派の臨済禅を伝えるという意味で「臨済正宗」や「臨済禅宗黄檗派」を名乗っていました。 その宗風は、明時代の中国禅の特色である華厳、天台、浄土等の諸宗を反映した混淆禅の姿を伝えています。 幕府の外護を背景として、大名達の支援を得て、鉄眼道光らに代表される社会事業などを通じて民間の教化にも努めたため、次第に教勢が拡大していきました。 本山萬福寺の塔頭は33ヵ院に及び、1745年の「末寺帳」には、1043もの末寺が書き上げられています。 1874年(明治7年)、明治政府教部省が禅宗を臨済、曹洞の二宗と定めたため、「臨済宗黄檗派」に改称しました。のちに1876年(明治9年)、黄檗宗として正式に禅宗の一宗として独立することとなりました。

鉄眼一切経

隠元の法孫に当たる鉄眼道光は大変苦労して隠元のもたらした大蔵経をもとに「鉄眼版(黄檗版)一切経」といわれる大蔵経を開刻・刊行しました。 これによって日本の仏教研究は飛躍的に進み、出版技術も大きく進歩発展しました。 一方、了翁道覚は錦袋円という漢方薬の販売により、収益金で鉄眼の一切経の開刻事業を援助する一方、完成本を誰もが見られるようにする勧学院を各地に建て、それが日本の図書館の先駆けとなったといわれています。 後に鉄眼一切経は重要文化財に指定され、黄檗山万福寺山内の宝蔵院で現在も摺り続けられています

黄檗唐音

黄檗宗に於ける読経は、現在も古い中国語の発音で行われており、これを「黄檗唐音(とういん)」と呼びます。

普茶料理

普茶料理(ふちゃりょうり)とは、江戸時代初期に黄檗宗の伝来とともに中国からもたらされた中国式の精進料理(素菜)です。葛と植物油を多く使用し、一つの卓を四人で囲む形式が特徴です。 「普茶」とは「普(あまね)く衆人に茶を施す」という意味で、法要や仏事の終了後に僧侶や檀家が一堂に会し、茶を飲みながら重要事項を協議する茶礼に出された食事が原型となっています。 長方形の座卓を4人で囲み、一品ずつの大皿料理を分け合って食べるという様式が、当時では非常に珍しがられました。炒めや揚げといった中国風の調理技術には胡麻油が用いられ、日本では未発達であった油脂利用を広めることになりました。